自身の体験談や考察を基に物事の考え方をまとめています。あくまで私個人の手法と考察であり、なんらかの結果を確約するものではないことをご了承の上、読み進めていただければ幸いです。
言葉の利点、限界について
言葉というのは非常に便利です。一番の利点として『情報の共有ができる』ことは皆さん理解されていると思います。では言葉における限界、言い換えるなら『言葉による情報の共有』の限界とは何でしょうか?解釈は様々ですが、今回は個人的な見解の一つを簡単な体験談と共に示してみます。
私が子供の頃、家族と展望台から街を眺めながら話していた時のことです。ふと「私と家族が見ている風景は同じなのだろうか?」と疑問に思ったことがありました。その時は首を傾げるだけでしたが、数日後、改めて考えていると動かないはずの地面が突如蔓でできた吊り橋になり足元がグラグラ揺れるような、とても不安定な気分になったことを覚えています。まるで今まで当たり前だと信じていた何かが、実はペラペラのティッシュのように頼りなげでもう二度と元の安定には戻れないかのような、そんな錯覚でした。そんな幼少時代の私にとっては恐ろしく確かな感覚でも、皆さんには意味不明な点も多いと思うので、分かりやすいように例に置き換えて説明します。
例えばAさんとBさんが同じ絵の具で描かれた赤色を見たとします。この時、二人は本当に同じ色が見えているのでしょうか?人間の多くは三色色覚と呼ばれる色覚らしいのですが、2色色覚や4色色覚を持つ人もいます。色覚の種類が優劣ではないと思いますが、敢えて比較するのであれば3色色覚の持ち主と4色色覚の持ち主とでは、見える色の種類が100倍近くも違うと言われています。この場合、見えている色が違う色であるのは容易に想像できます。では仮にAさんBさんが同じ色覚の持ち主だったとします。これなら同じ色が見えていると言えるでしょうか?確かに『赤色』ではあるかもしれませんが、もう少し詳しく考えてみましょう。赤色にもまた種類があり、この場合AさんとBさんでは細かく分類した赤色の種類のうち、それぞれが違う赤色に見えている可能性は否定できないかと思います。さらに変な例えとしてAさんが実は赤色が青色に見えているけど、その色こそが赤色だと思っている場合、赤色が青色に見えていたとしてもAさんは「赤色に見えている」と答えるのではないでしょうか?訳のわからない例えになってすみません。
つまり何が言いたいのかと言うと、「二者の間で正しい(と思っている)言葉を使用したとしても同じように見えているとは限らない」と言うことです。ややこしいですが、ここに『情報の共有』を言葉で行うことの限界があるのではないかと思います。言葉というのは物や事象などを定義(限局化)して共有できるようにします。強引に言うならば一定の条件を満たすものは全て同じ言葉になる、と言うことになります。りんご一つにしても『同じりんご』と言うものは存在しないのに同じようなものとして一括りにすることで、情報の共有が行えるようになるわけです。今回の例においては、感覚を排除し光の長短によってのみ色を定義し二人が使用すべき赤色を示す単語をもっと細かく分類して使用すればかなり近い情報の共有は可能化もしれません。しかし、AB双方の見ている色が赤色とは違う色であった(赤色をもっと細分化した場合の差異の場合も同様)としても本人達ににとってはその色こそが赤色だ、とされていた(お互いが定義している)場合、その差異を本人や周りが認識するのは難しいと思います。さらに、客観的に定義できるものであるならまだしも、主観に頼らざるを得ないものの場合、本人にとっての定義が言葉の設定となるため、差異の見分けはより一層難航すると思われます。
私は言葉が完全なものではなく、曖昧さを許容した上で成り立っているもの、故に人の意見や言葉による感情などの表現は思っている以上に曖昧なものである、と考えています。例に挙げたように、各人が同じものを同じように見ることすら困難であるからこそ、言葉を上手く使用しなければ情報の理解や共有は難しく、上手く使用したとしても実は違う見え方をしている可能性だってあるのではないでしょうか?そう考えた時に言葉のみに頼った表現の限界や、逆に他者を理解することの可能性が見える気がします。広辞苑などに定義されている言葉を覚え使用することは、情報の共有において大切ですが、言葉による表現の限界や、相手や自分の主観が入り混じった場合における認識の差異の可能性などを考慮しておくと、勝手な決めつけや憶測に気づきやすくなるのではないでしょうか?
今回はここまでにしようと思います。
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